前回の記事は2023年。あれから3年が経ち、世界は変わった。
そう、僕の周りの世界はAIによってたしかに変わった。

僕は最近「AI以前」「AI以後」という言葉をよく使う。「これはAI以前のものだから凄い」とか「AI以前であれば有効であった」とか「AI以後のXはそのクソさを増した」とか。
2026年、僕はいま、AI以後の世界にいる。

AI以後、いっそう僕は文章を書かなくなった。

「言葉」はよく書いている。しかし「文章」は書く機会が減っている。この違いを、最近よく考える。
言葉と言葉の間を埋め、もっともらしい文章を作成するのはAIに任せればできてしまう。
僕は怠惰だ。それはプログラマーの美徳とされ、たしかに怠惰であるから良かったことも多い。
ともかく僕は怠惰であるがゆえ、文章作成をAIに任せることが増えてきている。

ここでいう「文章」は、頭の中も含まれている。

僕は、思考を「単語」や「短文」で行うようになり、単語や短文をAIに投げかけて思考を補完・代替させることが増えてきている。
この思考方法をしているからといって、僕は直ちに自分をバカになっているとは思わない。バカの定義次第だろうが、自分の発想をアンカーのようにAIに打ち付け、間を補完させるやり方は、新時代の思考方法としてどちらかというと肯定的だ。

ある知人に聞いた。ワープロ登場以後、小説家はその執筆方法が本質的に変わったのだという。

  • 面倒な漢字を書くことなく言葉をそのまま打って文章ができあがり
  • 推敲しても推敲しても原稿用紙が汚れることもなく、
  • 構成を大胆に”コピペ”することもできる

ワープロでの執筆は、それらの体験が異なる文体を生むという。その時代に生きた作家は、ワープロ以前・ワープロ以後で異なる作家性を有したという。

AIは、似たようなものだろうか。
今のところ、僕は似たようなものだろうと思う。

だから前述の通り、AIによって僕はバカになっていないと思う。しかしそれは、総体の話だ。つまり、新時代の考え方はできるようになったが、旧時代の考え方は衰えていっているはずだ。
輝かしい青春のころ、AI以前の文章で、青臭いことを考え続けてきた。AI以前の思考は、僕にとって美しいものだ。

この文章は、AIを使わずに書いている。
衰え失われていく技能の片鱗が、あわよくば美しさが、表れていることを願う。