ぼくとFGOとKの昇天
昨日、高校の友人(以下、Kとする)の急死の報が入った。
Kとは、盆と正月にはたいがい集まって遊ぶ仲だった。チャットも日常的にしていた。それぐらいに身近な同年代の死というのは、実は初めてである。
思えば、Kは、ひょうひょうとしていて、よく分からないところで無茶もしていて、何を考えているか分からない、どこか胡乱な人物だった。いつ消えてしまっても不思議じゃない人、だったように思う(という発言を軽々しくしてしまうぐらいには、Kとは仲が良かった)。
そんな彼だったからだろうか、あまりに突然のことだったからだろうか。あまり実感が湧いていない。頭のどこかで、納得してしまっているぼくがいる。
いつか喪失感が湧いてくる気もするし、このまま、消えてしまいそうな人が消えただけ、と過ぎていってしまう気もする。
ただ、変わったことはある。
FGOのモチベがなくなった。もともとそんなになかったが、消え失せてしまった。
LINEグループに「ふぁてご」というグループがある。高校の友人3人が参加するチャットグループだ。ぼくと、Kと、もうひとりが、FGOに関する雑談をするだけのグループ。これまでも、ガチャ結果とかアストルフォがかわいいだとか、取るに足らない、くだらない雑談をしてきた。
くしくも、FGOではいま、ボックスガチャイベントが開いている。結構お気に入りのキャラであるナイチンゲールが配布キャラだ。今回はがんばろうかな。そう思っていた。
「こういう編成で周回している」「礼装ドロップした」「50箱。とりあえずここまではきた」
がんばったなら「ふぁてご」で放っていただろう言葉。この言葉を放てるようになったとき、「ふぁてご」に発言すべきかどうか。それを考えるのが面倒で、たぶん、ぼくはモチベを失ったのだろうと思う。
このチャットというのは曲者で、今もKは「ふぁてご」に所属している(なんなら、彼の訃報がもたらされたグループにも、彼は変わらず所属している)。Kは死んでもういないという情報がなければ、彼は、何も変わっていない。これはすごい話で、彼は今も生きている気がしてしまうというより、逆に、彼の不在が際立ってくるように感じてくる。幻影が、そこにいる気がしてくる。実に奇妙な感覚で、だからこそ、ぼくは発言する日常に戻りたくないのだと思う。
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梶井基次郎の作品に「Kの昇天」という掌編がある。種類は違えど、この作品の”K”も、胡乱で、いつ消えてしまっても不思議じゃない人として描かれている。
なんとなく、思い出した。
梶井基次郎のWikipediaで確認すると、31歳没と書いてあった。
「Kよ、梶井基次郎よりは長生きしたようだぞ」
そんな言葉をかけたくなった。