『聲の形』を読み返した。川井さんの「贖罪」について
川井さんだけ「贖罪」も「成長」も描画されていないのは、意図的なものなのだろうか。
まぁ、作品に対して意図的かどうかを聞くのはそれほど意味があることはない。
川井の「贖罪」が置き去りにされたのは多分、ある層の読者の暗示だと思う。
ある層とは、いじめをしていた人、みていた人、そしてそれに気付けなかった人だ。
現実の世界では、石田が成したような綺麗で完全な贖罪はなされない。まして、自殺をしようとしたいじめられっ子を救って自分自身が代わりに落ちるなど、起きるはずがない。現実では多くの”その層”は、いじめの過去を過去として生き続ける。多くは、川井がしたように「自分は悪くない」「あの時は仕方なかった」「あれがいじめだと思っていなかった」と思い込んで。
ぼくはたまに、小学校のころにしたあることが、いじめだったのではないかと思うときがある。
多分気にしすぎだ。なぜなら、その対象だった子――A君としよう――とは小学校在学中も卒業後も何年も特に親しく遊んだからだ。一番仲の良い友達だったと思う。上京して話す機会がなくなったあとも、親伝いの情報ではあるけど僕との思い出が良いものであったとA君は言ってくれているようだ。
それでも、ぼくがしたことをここに記せば、10人のうち9人は「それっていじめでは?」と疑うような内容だった。
小学校のころA君にしたことに、ぼくは一度も謝っていない。
今さら蒸し返すほど関係も悪くなく、接点もなく、いじめだったかも分からない。A君に謝ってもキョトンとするだろう。少なくとも、キョトンとするとぼくは思い込んでいる。
一生ぼくは謝らないと思う。それどころかもうA君と会うことなく一生を終えるかもしれない。
川井の描写は”物語”としたら、正直物足りない。過去と向き合おうともせずのうのうと生きているヤツとして消化不良を起こすキャラクターだ。でも、川井の立ち振る舞いは実に現実的で、生々しい。川井と西宮の関係は、高校時代において別に悪くない。特に西宮からの視点が大事なのだが、川井は高校時代では一貫して特に敵になっていなかった。
過去の贖罪はエネルギーを使うし、何より、失敗するかもしれない。今の関係が破壊されてしまうかもしれない行為だ。
石田は「贖罪」も「成長」も必要だった。
でも川井は、その両方が必要なかった。
こう断言できるのは物語の世界だからだ。西宮の感情は細かく描画され、読者には川井に贖罪が必要ないことは提示されている。でも現実は違う。ぼくの立場から「A君に対して贖罪は必要ない」ということは原理的には言えない。できるのは思い込むことだけだ。贖罪の放置リスクより、失敗リスクやコストのほうが、高いと思い込むこと。ぼくは一生、そう思い込むことになるだろう。
同様に、川井さんは物語の「中」の人だから贖罪が必要かどうかは原理的に分からない。それでも彼女は、贖罪は必要なく現状で仲良くすることを選んだ。それで良いと思い込んだ。
ここで、この記事の最初の文章にもう一度戻ることになる。すなわち、”川井の「贖罪」が置き去りにされたのは多分、ある層の読者の暗示だ”に。
ぼくの人生を鑑賞する存在がいたとしたら、ぼくが贖罪しないことにモヤモヤと消化不良を起こしているのかもしれない。
「あなたのために生きているわけではない」
そう川井さんも思っているのかもしれない。