美しき、サッカーW杯ポーランド戦
サッカーは紳士のスポーツなのか
まず、ぼくはサッカーは素人であり、ライト層である。W杯だしみるかーという程度の気分でみていたし、細かい戦術も、技能の難易度の差も、多くを理解していない。
そんなぼくだが、サッカーのテレビ番組をみていると、よく聞くフレーズが2つある。
ひとつは「サッカーは紳士のスポーツ」というフレーズだ。
しかし、ぼくの観る限りにおいて、このフレーズは偽りに感じている。たしかに成り立ちは紳士のスポーツなのかもしれないが、現在においてサッカーは紳士のスポーツにとても見えない。
よく聞くフレーズその2として「絶対に負けられない戦いがある」というのがある。こちらのほうがサッカーへの印象として近い。
サッカーをみていると、ファールをもらいにいくシーンを非常に多くみる。これはプレイしていない人間の感想なので、もしかしたら本当に全部が全部、やむを得ずコケてるのかもしれない。そうだったら申し訳ないが、「それそんなコケるほどぶつかってる?」と感じるシーンは実に多い。
その証拠に解説の「ファールのもらい方がうまい」という発言もよく聞く。見ているぼくもそう思う。審判に笛を吹かせるためにコケているようにみえる。
ファール判定がほしくて、コケる。うまくこけるとファールが出て、下手にこけるとファールが出ず、最高に下手だとイエローが出る。
また、失点に繋がりそうな危険な状態になれば、選手はイエロー覚悟で止めにいく。イエローカードとは「非紳士的な行為に対して」出るものらしい。つまり、失点を防ぐために、選手は非紳士な行為で止めに行く。
「時間を使う」というフレーズもよく聞く。勝っていると攻め込まない。パスを回して、攻めていこうとせず、時間を使う。勝つためには非常に有効な方法だと思うし、異論もない。ただ、全力で正々堂々戦っているかと言われれば、そうは見えない。
勝っているチームのゴールキーパーが遅延行為をしたとしてイエローが出る姿をよく見る。繰り返しだがイエローカードとは「非紳士的な行為に対して」出るものと聞いている。つまり、勝ちの状態を保つために、ゴールキーパーは非紳士的な行為に及んでいる。
こうして文章を書いていると頭の中も整理されてきた。断言できる。サッカーは紳士的なスポーツではない。勝ちにこだわるスポーツだ。
なぜイエローは許せて、時間稼ぎは許せないのか
さて、サッカーを観ていても、上記にあげたような非紳士的な行為に対して、実況・解説・Twitterの発言も「許せない」という反応はない。むしろ「よく止めた!」など称賛されてさえいる。イエローを辞さない行為が正当化されている実態がある。
なぜ許されるのか。それは、そうした行為が戦術として一般的に認知されているからだ。非紳士的な行為を利用し利用されることが、駆け引きの中に取り込まれているからだ。
選手・視聴者・全関係者との間で合意があるから、これらの行為は許容される。
このことについて、ぼくは全く異論がない。ペナルティを受けるデメリットより、イエローを使って選手を止めるメリットが上回るから激しく接触することは、大変合理的で、勝つためには必要な行為なのだと完全に理解できる。たとえそれが、非紳士的な行為であっても、だ。それが戦術として使っていいのなら、使うのは道理だろう。
さて。一方で、ポーランド戦で取られたパス戦術は、選手・視聴者・全関係者との間で合意がなかった。だから賛否両論が出たのだ。
ぼくの感覚では、なぜルールで許容された戦術が非難され、なぜ非紳士的でダーティーなプレイが許容されるのかが腑に落ちないし、それはダブルスタンダードじゃないのかと思うのだが、世間一般の合意がないのであれば、賛否両論状態になるのは理解できる。
ルールの穴ならぬ、合意の穴というべきか。人々が議論できる余地があったのは、その文化に瑕疵があったからなのだろう。
ポーランド戦での戦術は、賛否両論の問題として残り続ける。これはやむを得ないことなのだと思う。
覚悟した上の行動というのは、たいがいが美しい
勝ちにこだわり、勝ちに近いと考えられる戦術を採用した日本代表の姿勢は、有り体にいって”ぼく好み”の姿勢であり、称賛の言葉を惜しまない。
しかし、中庸な戦術だったかと言われれば、まったくそう思わない。守らず攻め続けたほうが、「合意の穴」に触れない無難な選択であったことは確かだからだ。
あの戦術は、セネガルが点を入れてはならず、ポーランドが点を入れてもならず、日本がイエローを取ることもできない。まさに氷の上を歩くようなものだった。そのような他人任せで不確実な線に頼らず「ともかく点を入れれば決勝Tいけるんだ!」という立場を採用するのに、なんら違和感がない。ぼくだって、攻めていても戦術的には正しかったと思う。
攻めることが、いろいろな立場の人に良い顔ができる無難な選択だったはずだ。
しかし、そうはしなかった。あの戦術に「否」の声が上がることは、あまりにもたやすく想像できたはずだ。だが日本代表の選手たちは勝ちにこだわり、合意の枠外に歩み出ることに決めたのだ。
眠くなるようなパス回しをすることが、もっとも勝つための最も高い戦法だと判断し、採用した。
覚悟という言葉は、こういうときに使うのだと思う。
ぼくはあのパス回しに、物語的なカタルシスを感じた。普通にみたら何の面白さもないあの時間帯が、一番輝いてみえた。
物語構造の基本なのだが、物語というのは「変化」が必要である。開始時と終了時で、変化がないものは物語ではない。
サッカー素人の妄想であろうが、勝負弱いと言われ続けた日本代表が、無数の傷をつけながらも凛々しく立ち上がったように僕にはみえた。小説のクライマックスを読んでいるような気分でパス回しをみていた。
あの眠くなるクソみたいな最低なパス回しが、最高にかっこよくみえた。なんだか文字数も多くなってしまったが、結局、これが言いたかったことである。
決勝トーナメントに向けて
実はぼくの中では、ポーランド戦は物語と化していて、すでに最終ページまで読み終えた感覚でいる。覚悟に満ちたクソみたいなパス回しをして、決勝T行きを決めて、終了。決勝Tの結果は読者の想像に委ねる形だ。綺麗な終わり方だと思う。
もちろん、現実では決勝Tはやってくる。
たぶん、負けた方が物語としての完成度は高いと思う。悲壮感というエッセンスが強まり、覚悟が一層際立つからだ。孤高感と次のW杯に向けての期待感とともに物語はエピローグまで書き切られる。次のW杯はさながら続編にあたり、ぼくはその刊行を楽しみにすることになるだろう。
一方、勝ち進んだ場合は、出来すぎたサクセスストーリーとして逆に物語性を失い、現実に還ってくる。これはこれで大変に喜ばしい。そのとき、彼らは現実のヒーローとなり、あの戦術は正しいものとして再評価されるだろう。
彼らは、ぼくの妄想ではなく現実の人間だ。だから、やはりぼくは勝利を期待する。
がんばってほしいなと思う。