娘(2歳)は食への興味が薄い。故に、親にとって食事は基本的に「試練」の時間となる。

いただきますの数分後、娘は言う。「いないいないばあ、みたい」

育児書にはたいてい「食事中のテレビはNG」とある。それは知っているが、事実として、娘はテレビを見ながらじゃないと頑として飯を食わない。
よって、育児書の記載は忘れ、録画した『いないいないばあっ!』を見せようとする。

録画一覧から選ぼうとしていると、娘は言う。「おーとん、みたい」

……なるほど、わかった。
ぼくは納得して一覧から『えいごであそぼ with Orton』を選択する。

OPが流れ始める。軽快な音楽が流れる中、娘は言う。「いないいないばあ、みたい」

神が降りてきた。ぼくは感じる。
一応、矮小な人の言葉を伝えよう。「いないいないばあみたいか、けど次にしよう。Ortonみたいって言ったでしょ。ごはん食べなさい」

すると娘は泣く。「いないいないばあ、みたい」「いないいないばあ、みたい」「いないいないばあ、みたい」

僕は、神と対峙している。子育てを始めて以来、よく思うようになった。彼女は子どもであり、神である。

僕の浅い理解では、キリスト教における「祈り」とは、神に届くとは限らないものらしい。
神に届くとは限らないが、人にできることは「祈り」しかない。だから人は祈る。らしい。

だとするならば、ぼくが彼女にする発話は祈りと何が違うのだろうか。

「あなたは、さっきOrtonを見たいって言ったよね」
「だからわたしは、Ortonを見せました」
「けどあなたは、映るやいなや、いないいないばあっ!を見たいといった」
「それは通りませんよ」
「そんなことより、あなたはごはんを食べるべきです」

理解できているはずがないのだ。僕の言葉はきっと彼女に届いていない。
それでもぼくは言わざるを得ない。いつか神が聞き届けてくれるときを信じて。そういうことになっているし、僕もそう思う。

子どもと神は、非合理であり非理性(正確には、理はあるが、大人には理解しえない)である点で一致している。
神は疫病を見逃すし、あるいは作りすらするかもしれないが、子どもは手洗いソープの泡が右手でなく左手に落とされたことに怒り狂う。
非合理であり非理性であるが、あれだけ怒り狂うのだから理由はあるのだろう。理由がなくては困る、そう人間は考える。
僕の浅い理解では、キリスト教における「祈り」とは、神との対話にあるらしい。
神との対話は(おそらく)沈黙のうちに行われるが、娘は目の前におり、対話に具体性があり、試練に具体性がある。
考えても無駄だと頭では分かっていながら、ぼくは「どっちの手に泡があっても洗うときには混ざるよ」という。
人が立ち向かえる問題ではないのだ。しかし、立ち向かうしかない。これを試練といわずなんと呼ぶだろう。

僕はどうにも、娘の癇癪に「聖なるもの」を感じざるを得ない。「聖なるもの」は俗の彼岸であり、獣であり、恍惚である。理性からみたら、決して良いものばかりではない。
人は神の試練の前には祈るしかない。そして、彼女が「聖なるもの」を失い人になるころには、彼女からは「なぜ」は失われているだろう。