前回のはこちら

ぼくという読者は「誰」?

川井はあくまでいじめを過去のものとした人の「暗示」であって、読者の「投影先」ではないというのは、前回の話の通りだ。川井が物語の登場人物である限り、川井は単に「自己愛に溺れたムカつく性悪女」であり、共感を呼ぶキャラクターではない。

これは彼女のキャラ構造的にも明らかである。川井は徹底して自身を肯定し、自身の誤りを認めようとしない。そのため、このキャラクターに共感するには「自分の弱さに気付けないことに気付く」という矛盾が求められる。つまり仮に読者が「この川井というキャラクターは私のことだ」と思ったならその瞬間に、その読者は川井から離れているのだ。
当然ぼくも川井に共感などせず、「近くにいたら嫌だが実にいそうな人間だなぁ」と胸やけを起こしていた。(この感想はそれはそれで独特の間抜けさがあるのだが、脇に置いておく)

では、僕はいったい「誰」に共感したのだろうか。
言い換えれば、僕はどの登場人物を介在して『聲の形』という物語に入り込んだのだろうか

主人公である石田か? それともヒロインである西宮か?

そんなはずがない。
キリストもビックリな自己犠牲・聖人っぷりな二人に共感できるほど出来た人間じゃない。西宮をみて「これ私だ!」と思う人がいたとしたら、その人は多分西宮と似てないと思う。”同じことを考えていた”ことでお馴染みの石田にしても同様だ。(余談だが、「石田は過去に過ちを犯したのだから救われてはいけない」みたいな話をする人がたまにいるが、キリスト教とか仏教とかをみても、罪人の扱いはそれほど単純ではない)

常人にはないパワーで物語を切り拓いていくという意味では、石田や西宮はルフィや桜木花道、黒崎一護と変わらない。彼らはまさしく主人公である。

では友達代表な永束か? 他人代表な真柴か?

違うと思う。
彼らは物語の主題である「石田と西宮の救済」への関与が少なすぎる。彼らに共感したならば、この物語はそれほど立体的にならない。ぼくの中のこの重厚な読後感にはそぐわない。

石田母? 西宮母? 結絃?

これも違うだろう。
それほど「いじめ」に直面したことも、内面に抱えてもいない。

残る主要人物は

植野と佐原になる。

そう、ぼくは植野・佐原のどちらか、あるいは両方に共感した。
どちらかと言われれば、植野だ。
植野という人物を通して、ぼくは石田と西宮を眺めていた。

ぼくという読者は何を「期待」していたか

「読者」である以上、ぼくは何かを期待して読んだことになる。
何を? これはたぶん2つある。いずれも醜く傲慢な「期待」だ。

一つは「いじめられた二人が立ち上がる様を見たい」という期待

この字面は一見すると別に醜くともなんともない。この物語は「いじめた・いじめられた少年少女が過去と向き合いながら立ち上がっていく」のが主軸であり、その意味では「困難があってそれを乗り越える」という実にシンプルで王道な物語構造をしている。丹念な人物描写で人を引き込む魅力に満ちているが、基本的には「あ~西宮も石田も、ほかのみんなも、がんばったな~」で終わっても良い作品である。

だが、この物語を植野を通してみたとき、途端にこの「いじめられた二人が立ち上がる様を見たい」という期待は醜くなる。

ここで、石田と西宮は、読者の過去へリンクする。すなわち、ぼくの同級生で、いじめられっ子だった(かもしれない)A君の暗示となる。
「A君は今も元気に生きている。あのときは大変だったかもしれないけど、今は未来を見つめて進んでいる」――そう思い込むための”代走者”となる。

言うまでもなく、フィクションである石田と西宮の立ち回りが、ノンフィクションであるA君に反映されるはずがない。だが、もう僕は何年もA君と出会っていない。A君の今は、想像するしかないのだ。想像するしかないものとは、虚構である。ここで、「物語という虚構」と「想像するしかない同級生の現在」は、脳内で仲良く手をつないで同じステージに上がってしまう。
そして期待するのだ。「アナタはきっと大丈夫だ」と。

もう一つは「いじめられた側にも理由がある」という期待。

これは一つ目と比べても飛び切り性悪だ。

高校時代における植野の主張は、実は一貫している。「私も悪かった。でも、貴女も悪い」。遊園地の観覧車での会話が植野にとっての主要な主張だ。

最終巻において、植野は石田に対し、罪を告白し謝罪した。一方で、西宮に対しては謝罪はついに口にしなかった。そこからみても、彼女の主張は一貫している。
注目したいのは、エピローグにあたる成人式の場面では、西宮と仲良く交流している様が描かれることだ。謝罪という行為を経ることなく植野と西宮は友達になったという表現だと僕は思っている。

もう少し詳しくみよう。

「謝罪することなく友達になった」という部分だけを取り出せば、植野と川井は同じである。
しかし、その中身はかなり異なっている。
“良い子”であることに固執する川井にとって、同年代の同性の人間とは「仲良くしなければならない存在」であり友達の内面は実は大した問題ではない。
一方植野は違う。中身が大事なのだ。つまり植野は「過去の西宮」は否定し、「現在の西宮」は受け入れたと考えるべきだろう。
植野が受け入れた西宮は、「過去の西宮」ではなくなった。成人式での西宮は、やりたいことがあるから東京に行きたいと主張した西宮であり、それはつまり「泣きたいときには泣けばいい」と石田に言われた西宮である。過去と現在の「差」が、植野の態度として現れているのだ。

さて、この分析は彼女の主張を補強するが、同時に、「いじめられた側にも理由がある」という主張の補強を行う。

仲良くなれない人間に警告を出し、その警告を理解されず近づかれたことで起こる諍いというのは、ありふれている。多くの人間に経験があるのではないだろうか。そんな誰にでも起こり得る諍い・悲劇が、彼女たちの中でも起きた。小学校時代において、植野は警告し、西宮は理解できなかった。

植野は思ったはずだ。
「悪いのは私だけじゃない」「警告した側が100%悪いとは思いたくない」

このありふれた感情は、読者の一部に還元される。植野にとっての主張は、読者にとっては潜在的な主張だった。「悪いのは私だけじゃない」。その代弁者が彼女だった。『聲の形』でぼくが最も印象に残っているシーンは、自殺が失敗した西宮に対し、植野が乱暴する場面だ。はじめは単に心動かされただけだったが、繰り返し読み返すたび、気付いてきたことがある。彼女の発言はどこか共感できる、と。彼女が代弁者のように思えてきたのだ。

それは突き詰めて考えれば、この「期待」に結びついてしまう。

二つの「期待」の根源

この二つの「期待」は、ある欲望に立脚していると指摘できる。

すなわち、「のうのうと生きていたい」という欲望にだ。

「いじめられた二人が立ち上がる様を見たい」のは、仮に過去で無自覚にいじめをしていたり傍観していたりしても、彼は彼で生きていけるのだ、と思い込みたいからだ。
「いじめられた側にも理由がある」と考えたいのは、仮に過去で無自覚にいじめをしていたり傍観していたりしても、それはしょうがなかったのだ、と思い込みたいからだ。

さて、この”思い込み”について議論したことを覚えているだろうか。この思考は、前回でした川井の思考にそっくりだ。
川井的な面を自覚した読者は、次に緊張感をもって植野を追う。
「彼女に代弁してほしい」「この気持ちを精算してほしい」と無意識に願いながら。「僕たちは川井であり続けていいのだ」と期待しながら。

その「期待」が植野への共感の根源である。

「ぼくという読者」と「ぼく」

実は、川井と植野というキャラクターは表裏の関係である。
言い換えれば、”立ち向かった植野”と”立ち向かわなかった川井”という対比が成立している。

「現実のぼく」は、立ち向かわなかった。だから、現実のぼくは川井だ。
でも「読者としてのぼく」は、植野になることを望んだ。開き直ってしまえば、「(川井のように)のうのうと生きていたい」からその代走に植野選手を選んだ、と言い換えることもできる(自己擁護するなら、読者というのは大概、傲慢で自分勝手なものだ)。この代償行為は無意識に行われ、呆け顔で「植野ってキャラクターはいいなぁ」などと言ってしまう。
そういう仕立てに『聲の形』はなっている。

そんな無責任な読者を知ってか知らずか、植野はいじめた人・いじめられた人・その周囲・そして自分自身にまで立ち向かう。

その姿は、植野共感人間には”代償”に見えたのだろう。彼女の付き合い方は暴力的だが、ある意味で痛快である。『聲の形』のカタルシスは、少なくとも僕にとっては、植野を通じて成されたのだと分析する。

植野を応援して植野になった気になる「ぼく」

さらに暴論を呈するのであれば、ぼくのような人間にとって『聲の形』は”川井から植野になった気にさせる物語”と言えよう。

それは僕が「成長」したことを意味しないし、「懺悔」したことにもならない。まして「謝罪」をしたことにもならない。ただ、「感動」しただけである。
『聲の形』ができるのはそこまでだ。